紫福院家とは
紫福院家の祖先は、今より約1500年前の古墳時代より越前国(現在の福井県あたり)に存在し、男大迹王(後の継体天皇)の下、治水や田畑の整備といった灌漑整備をおこなっていたという記録があります。そこから飛鳥時代、奈良時代と、越前国を支え続けてきました。平安時代に入り多くの功績が認められることとなり、紫福院の氏を得て、国司を支える家柄になったとされています。
長徳二年(西暦996年)源国盛に代わり国司となった藤原為時の下、当時の紫福院家当主である多巳麻呂は、治水等の土地管理を任されていました。
紫福院史
古墳時代

紫福院家の書には、”男大迹王、水国を田畑へと変える。田吾作、地を掘り水を通す。男大迹王、田吾作に『多』を与えもてなす。以降、多吾作を名乗る。”という一文があり、紫福院家の祖先である田吾作が男大迹王より『多』の文字をもらい、以降多吾作を名乗ることになったという事がわかります。当時はまだ地方豪族の力が強く、天皇家の血筋であった男大迹王も越前国のいち豪族に過ぎませんでした。
その後多吾作は、男大迹王が天皇として即位する前にこの世を去ることになりますが、男大迹王が多吾作に伝えたとされる「越前国を豊かに」という言葉を胸に、灌漑技術は子々孫々受け継がれていくこととなりました。
飛鳥時代~奈良時代

飛鳥の時代、大きく変わったのは遣隋使・遣唐使による渡来人・大陸文化および仏教の伝来でした。当時、豪族間での対立が深刻になってきていたのですが、聖徳太子は仏教の宗教観を取り入れることにより、冠位十二階と十七条の憲法を制定し、天皇を中心とした統一国家を築き上げ、律令国家としました。日本神道が主流であった当時、仏教の考え方と反するとして争いが起こったのですが、それも聖徳太子により神仏儒習合という思想(ほぼこじつけ)があみだされ、両立するという現代に繋がる宗教観となっていったのです。
大豪族であった蘇我氏により飛鳥京に飛鳥寺が建立され、それを皮切りに各地に寺が建立されることになったのですが、それによりもたらされたのは新しい建築技術でした。当時農民の暮らしはいまだに竪穴式が主流だったのですが、建築技術により、柱と壁を使用した高床式へと変わっていくことになりました。
越前国は変わらず豊かだったのですが、その豊かさゆえに地方豪族による争いに度々巻き込まれることになっていきました。当時の家長である多呂吉は、すでに小さな豪族並みの統率力と交渉力を得ていたのですが、家名は名乗っていなかったとされています。一族は灌漑や建築の技術が卓越していたため、中央や各豪族に手を貸すことにより地域を大きな争いから守っていたらしいです。この当時、すでに情報の大切さに気付いていた多呂吉は、影と呼ばれる情報偵察の者を一族から排出していたそうです。豪族同士の争いはあったものの、大きな争いに発展しなかったのは、この影の功績もあるのでしょう。
東大寺の領荘である桑原荘の大規模灌漑施設の整備にも当時の家長である多未吉が指揮をしたと言い伝えられています。
平安時代

時代は平安に入り、豪族の力による支配から貴族による比較的平穏な統治に切り替わっていきました。平穏な時代には文化が発展するものです。平安時代には、現在の日本文化の元となる、かな文字、和歌、物語、大和絵、が発展していきました。手紙文化が発展し、貴族の男女間で和歌を詠んで手紙を贈り合う風習が生まれ、和歌集なども数多く作られていきます。紫式部による源氏物語もこの時代に作られたものですが、大きな変化はここにありました。力の時代にはなかった、文学による女性の社会進出です。女性が自己表現をできるようになった時代こそが、平安時代なのです。
この時代に、紫福院家は誕生したとされています。当時の家長である多良吉の代に紫福院の氏を名乗ったらしく、その際に名前も多良麻呂としたとされています。紫福院家初代の誕生となりますが、氏に関してはもらった説や勝手につけた説があり、定かではありません。名前に麻呂がついていたり、藤をモチーフにした家紋を使っていたりするため、奈良時代に藤原仲麻呂と何らかの関係があったとも思われますが、紫福院家の書からはその時代の部分が抜け落ちており、推測しかできません。推測できるのは、多恵吉が藤原仲麻呂より桃をもらい、病状が回復。それを恩に感じていたということぐらいでしょうか。その際に氏をもらっていたのかもしれません。死を覚悟していた仲麻呂は、氏を今名乗ると戦乱に巻き込みかねないとし、2代後にほとぼりが冷めた頃名乗るようにと言ったのかもしれませんね。
その後、平安時代は国司の下で灌漑や治水といった、土地の管理を任される家となっていきました。長徳二年(西暦996年)に源国盛に代わり国司となった藤原為時の下でも、紫福院多巳麻呂はしっかりとお勤めを果たしていました。多迦麻呂は、その三男として生まれることになります。
紋について

正式な紋の名は『三つ桃藤囲い紋』といいます。紫福院という氏よりも前に、似た紋を印として使用していたとも伝えられているのですが、定かではありません。当時、藤原氏の影響からか、貴族の中で藤を愛でるブームがあったらしく、例にもれず紫福院家も立派な藤棚を所有していました。藤紋は、藤原氏にあやかって使う家が多かったとされており、親戚関係にある家しか使えなかったわけではありませんでした。
桃に関しては、不老長寿にあやかって家の繁栄を願った説もあれば、単に当時の家長が桃好きだったという説もあり、定かではありません。紫福院家の書に「多恵吉、病に伏すが桃を3つ食べたところたちまちに回復す」という謎の一文があったのですが、それが紋に関係しているのかは謎のままです。
